選択式夫婦別姓についての現在の議論は全て愚論である。
「選択式夫婦別姓制度」を導入しろと、左翼やマスコミは相変わらず騒ぎ立て、「夫婦同姓制度」はまるで諸悪の根源のように言い立てていますが、この議論、私に言わせれば、賛成意見も反対意見も全てが「大愚論の東正横綱格」です。
まず、賛成派も反対派も、「姓」と「苗字」と「屋号」の区別が一切ついていません。現在の日本で「姓」と称しているものは全て「苗字」であり、実質的な使われ方としては「屋号」です。まずはここをはっきりさせないとこの問題の本質は全く見えて来ません。
賛成派の方々は殆どが左翼やフェミニストやマスコミ関係です。彼等は伝統的な日本の家庭のあり方を壊したいと思っていますから、「夫婦別姓」に賛成するのは当然なのですが、そのための材料として「父方の血統名たる姓」に拘るとは、まさにギャグとしか言いようがありません。
また、反対派は反対派で、何故反対するのかの理由としては、「家族の一体感が失われるからダメ」と言う事ですが、左翼やフェミニストやマスコミは、元々、「家族制度」を破壊したい訳であり、その入口として「夫婦別姓」を制度化したい訳ですから、「家族の一体感が失われる」のは彼等が一番望んでいる事であり、こう主張した所で彼等が聞き入れる訳がありません。余りにもぬるい反論です。
さて、話を整理するために、まず、定義をはっきりさせましょう。「姓」は父方の血統名であり、日本においては最終的には源、平、藤原、橘の四大姓に加えて豊臣と、この五つしかないのです。この定義で行きますと、「姓を持たない平民」もいる事になるでしょう。
「苗字」とは、元々臣下に下った「天皇の子孫」が、地方に移住して一族を持った際に、地名などを使って姓の代わりに名乗ったものです。例えば足利高氏(尊氏)や新田義貞は元は源氏であり、源高氏、源義貞が本名です。それぞれの先祖が地名の足利や新田を取って苗字としました。
「屋号」は、お分かりのように「商店の名前」です。紀伊国屋文左衛門の「紀伊国屋」とか、大黒屋光太夫の「大黒屋」がそうですね。これは苗字ではありませんが、実質的には苗字として通用しました。
さて、こう定義した上で、現在の日本で称している「姓」とは何かを考えれば妙な事に気づく筈です。現在の「姓」は、「苗字」ですらなく、実質的には「屋号」です。
まず、現在でも日本では人を呼ぶ時に苗字で呼ぶ事が殆どです。「鈴木弘」さん、「佐藤恵子」さんを個人として呼ぶ時は、殆ど「鈴木」さん、「佐藤」さんと呼びますね。でもこれって本当はおかしいのです。その人個人はあくまでも「弘」さんであり「恵子」さんです。なのに何故か苗字で呼ぶ事が殆どです。これは何故でしょう。
実はこれ、日本人が取り憑かれているタブーが根源にあります。「相手の本名を呼ぶと、相手の全てを支配出来る」と言う迷信が存在し、「対等な立場の人や目上の人の名前を呼ぶのは失礼に当たる」と言う考えが根本にあるために、「相手を本名で呼ばずに通称や役職で呼ぶ」と言うシステムが出来上がってしまいました。これが諸悪の根源なのです。
江戸時代までは、遠山景元が金四郎、長谷川宣以が平蔵と言ったように、本名の他に通称を持っている事が多かったため、通称で呼べば問題なかったのですが、明治に入って通称を廃止してしまったため、本名を呼んではいけないと言うタブー故、相手を苗字で呼ぶ事が完全に定着してしまいました。
無論、江戸時代であっても相手を「長谷川殿」「遠山様」と言ったように苗字で呼んでいたケースはあった訳ですから、必ずしも通称と本名の関係に全てが集約される訳ではありませんが、いずれにしても相手を呼ぶ時は「苗字」を使う、と言うやり方が明治以降は定着しました。これは役職や屋号についても同じ事で、本名の代わりに役職や屋号で相手を呼ぶ事により、「本名を呼んではいけない」と言うタブーを回避している訳です。
話は少し脱線しますが、欧米ではこのタブーはどうなのでしょう。アメリカでは名前で相手を呼ぶ事はタブーではないと思います。奇妙なのは、大して親しくない日本人の男性が、「佐藤恵子」さんを「恵子」と呼んだらセクハラ扱いされるのに、アメリカ人の男性が「ヘイ! ケーコ!」と呼ぶのは全く問題なく受け入れられているフシがあると言う事です。私が調べた限りでは、アメリカでも礼儀正しくせねばならないケースでは相手を親しげに名前で呼ぶ事はないようですが、ハードルとしては日本より遥かに低いと思います。
話を元に戻します。さて、「夫婦別姓」に拘る人は、「仕事をする上で呼び名が変わるのは不便だ」、「名前を変える手続きが面倒なので嫌だ」に加え、「今まで使ってきた姓を変えさせられるのは嫌だ」と主張している事が多いように思えます。
ですが、これはよくよく考えると実に滑稽な話です。そもそも仕事の上でお互いに名前を呼び合わずに苗字で呼び合っているから、「仕事をする上で呼び名が変わるのは不便だ」と言う話が出て来るのであり、みんながお互いに名前で呼び合えば、「仕事をする上で呼び名が変わるのは不便だ」と言うケースは激減する筈です。ですから進歩的な左翼やフェミニストの方々は、寧ろ、「苗字で呼び合うのをやめて名前で呼び合おう」と主張すべきだと思うのですが、こう言う事を主張している人の意見は、少なくとも私は一切見た事がありません。それに、日本の職場では「所長」「部長」「課長」「係長」等、役職で相手を呼ぶ事が殆どです。では、係長が課長に昇進した時、「今までは係長で通していたのに課長に変わるのは面倒だ」となぜ言わないのでしょうか? 名刺も作り変えますし、役職の変更も苗字の変更も手間は変わらない筈です。
また、「名前を変える手続きが面倒なので嫌だ」と言うならば、結婚して新居を構えた時、住所変更の手続は面倒ではないのでしょうか? 「結婚して新居を構えた時に住所変更する手続きが面倒だから何とかしろ」と言っている左翼やフェミニストの方の意見も、少なくとも私は一切見た事がありません。
更に、先述したように、「今まで使ってきた姓を変えさせられるのは嫌だ」と言う意見に至っては、「父方の血統名と言う、保守的極まりない制度」に何故左翼やフェミニストの方々が固執するのか全く理解不能です。寧ろ彼等は、「父方の血統名と言う、保守的極まりない制度である姓を廃止しろ」と主張すべきなのではありませんか。
これらは全て「姓」と「苗字」と「屋号」の違いを理解出来ていないから起こる愚論です。この件をスッキリさせたいならば、まずは以下のように考える所から出発すべきです。
そもそも、日本で使われている「姓」と称するものは、突き詰めれば「一家族の名前」なのです。つまり、まるっきり「屋号」なのです。
「屋号」なのですから、結婚して新しく戸籍を作った場合、その戸籍名としての「屋号」が必要になるのは当然であり、その戸籍に属する人は、全てその屋号に属するべきなのです。ですので、元は源氏の一族が足利に行ったから足利氏となったように、「結婚して新しく戸籍を作った場合、新しい戸籍名を作る」とするのが正しいのです。無論、その時に「姓」を「本姓」として記録しておく事に関しては何の問題もありません(ただ、父方の血統名を特別扱いするのはそれこそ女性差別ではないかと思うのですが、何故左翼やフェミニストの諸氏はこれを問題にしないのでしょう。実に不思議です)。
サラリーマンが転職して会社を変わった時、新しい会社の人間の立場で、以前から知っている会社に仕事に行く場合は、当然その時に所属している新しい会社の名前で呼ばれます。A社からB社に変わった人が以前から知っているC社に営業を掛けに行ったら、「B社さん」と呼ばれる筈です。それで何の問題もありません。「所属している部署が変わったら新しい部署の名前で呼ばれる」のは当たり前なのですから、「結婚して新しい戸籍を作った際は、戸籍名として新しい苗字兼屋号を作る」と言う制度にすべきなのです。
どうしても「新しい屋号で呼ばれる」のが嫌なのなら、ナンセンス極まりない迷信に基づく「名前を呼ぶ事にまつわるタブー」を全面的にやめるようにしましょう。「いかなる場所や場合でも、苗字ではなく名前で呼ぶ」と言う事を徹底すれば、「結婚したら呼び名が変わる」と言う事はありません。
尚、「変更手続きの煩雑さ」については、それこそマイナンバーの活用で全て解決する筈です。某IT企業のトップの方が変更手続きの煩雑さを理由にして夫婦別姓に拘っておられるようですが、私に言わせれば、寧ろそう言う立場の方々は「マイナンバーの活用で手続きを簡素化すべきだ」と主張してしかるべきだと思います。しかしそう言う主張をなさったと言う事は寡聞にして知りません。実に不思議かつ滑稽な話です。
また、マスコミが「世論調査」(「世論」はあくまでも「せろん」です。「よろん」は「輿論」であり、「世論」は「よろん」と読むべきではありません)なるものにより、「国民の大多数は選択式夫婦別姓議制度に賛成している」と主張していますが、これは明らかな嘘であり、読み手のミスリードを誘う手口です。本当の所は、「国民の大多数は選択式夫婦別姓制度などどうでも良く、積極的には反対しないからどうぞご勝手に」です。左翼やフェミニストやマスコミ関係がいくら騒いでもこの問題に関する議論が進展しないのは、マスコミの嘘を国民が見抜いているからです。
このように、現在の日本における「夫婦別姓」議論は、私に言わせれば根本的な部分から完全に脱線している大愚論の東正横綱格です。ここをきちんと押さえた上で、夫婦別姓の議論をすべきだと思います。
まず、賛成派も反対派も、「姓」と「苗字」と「屋号」の区別が一切ついていません。現在の日本で「姓」と称しているものは全て「苗字」であり、実質的な使われ方としては「屋号」です。まずはここをはっきりさせないとこの問題の本質は全く見えて来ません。
賛成派の方々は殆どが左翼やフェミニストやマスコミ関係です。彼等は伝統的な日本の家庭のあり方を壊したいと思っていますから、「夫婦別姓」に賛成するのは当然なのですが、そのための材料として「父方の血統名たる姓」に拘るとは、まさにギャグとしか言いようがありません。
また、反対派は反対派で、何故反対するのかの理由としては、「家族の一体感が失われるからダメ」と言う事ですが、左翼やフェミニストやマスコミは、元々、「家族制度」を破壊したい訳であり、その入口として「夫婦別姓」を制度化したい訳ですから、「家族の一体感が失われる」のは彼等が一番望んでいる事であり、こう主張した所で彼等が聞き入れる訳がありません。余りにもぬるい反論です。
さて、話を整理するために、まず、定義をはっきりさせましょう。「姓」は父方の血統名であり、日本においては最終的には源、平、藤原、橘の四大姓に加えて豊臣と、この五つしかないのです。この定義で行きますと、「姓を持たない平民」もいる事になるでしょう。
「苗字」とは、元々臣下に下った「天皇の子孫」が、地方に移住して一族を持った際に、地名などを使って姓の代わりに名乗ったものです。例えば足利高氏(尊氏)や新田義貞は元は源氏であり、源高氏、源義貞が本名です。それぞれの先祖が地名の足利や新田を取って苗字としました。
「屋号」は、お分かりのように「商店の名前」です。紀伊国屋文左衛門の「紀伊国屋」とか、大黒屋光太夫の「大黒屋」がそうですね。これは苗字ではありませんが、実質的には苗字として通用しました。
さて、こう定義した上で、現在の日本で称している「姓」とは何かを考えれば妙な事に気づく筈です。現在の「姓」は、「苗字」ですらなく、実質的には「屋号」です。
まず、現在でも日本では人を呼ぶ時に苗字で呼ぶ事が殆どです。「鈴木弘」さん、「佐藤恵子」さんを個人として呼ぶ時は、殆ど「鈴木」さん、「佐藤」さんと呼びますね。でもこれって本当はおかしいのです。その人個人はあくまでも「弘」さんであり「恵子」さんです。なのに何故か苗字で呼ぶ事が殆どです。これは何故でしょう。
実はこれ、日本人が取り憑かれているタブーが根源にあります。「相手の本名を呼ぶと、相手の全てを支配出来る」と言う迷信が存在し、「対等な立場の人や目上の人の名前を呼ぶのは失礼に当たる」と言う考えが根本にあるために、「相手を本名で呼ばずに通称や役職で呼ぶ」と言うシステムが出来上がってしまいました。これが諸悪の根源なのです。
江戸時代までは、遠山景元が金四郎、長谷川宣以が平蔵と言ったように、本名の他に通称を持っている事が多かったため、通称で呼べば問題なかったのですが、明治に入って通称を廃止してしまったため、本名を呼んではいけないと言うタブー故、相手を苗字で呼ぶ事が完全に定着してしまいました。
無論、江戸時代であっても相手を「長谷川殿」「遠山様」と言ったように苗字で呼んでいたケースはあった訳ですから、必ずしも通称と本名の関係に全てが集約される訳ではありませんが、いずれにしても相手を呼ぶ時は「苗字」を使う、と言うやり方が明治以降は定着しました。これは役職や屋号についても同じ事で、本名の代わりに役職や屋号で相手を呼ぶ事により、「本名を呼んではいけない」と言うタブーを回避している訳です。
話は少し脱線しますが、欧米ではこのタブーはどうなのでしょう。アメリカでは名前で相手を呼ぶ事はタブーではないと思います。奇妙なのは、大して親しくない日本人の男性が、「佐藤恵子」さんを「恵子」と呼んだらセクハラ扱いされるのに、アメリカ人の男性が「ヘイ! ケーコ!」と呼ぶのは全く問題なく受け入れられているフシがあると言う事です。私が調べた限りでは、アメリカでも礼儀正しくせねばならないケースでは相手を親しげに名前で呼ぶ事はないようですが、ハードルとしては日本より遥かに低いと思います。
話を元に戻します。さて、「夫婦別姓」に拘る人は、「仕事をする上で呼び名が変わるのは不便だ」、「名前を変える手続きが面倒なので嫌だ」に加え、「今まで使ってきた姓を変えさせられるのは嫌だ」と主張している事が多いように思えます。
ですが、これはよくよく考えると実に滑稽な話です。そもそも仕事の上でお互いに名前を呼び合わずに苗字で呼び合っているから、「仕事をする上で呼び名が変わるのは不便だ」と言う話が出て来るのであり、みんながお互いに名前で呼び合えば、「仕事をする上で呼び名が変わるのは不便だ」と言うケースは激減する筈です。ですから進歩的な左翼やフェミニストの方々は、寧ろ、「苗字で呼び合うのをやめて名前で呼び合おう」と主張すべきだと思うのですが、こう言う事を主張している人の意見は、少なくとも私は一切見た事がありません。それに、日本の職場では「所長」「部長」「課長」「係長」等、役職で相手を呼ぶ事が殆どです。では、係長が課長に昇進した時、「今までは係長で通していたのに課長に変わるのは面倒だ」となぜ言わないのでしょうか? 名刺も作り変えますし、役職の変更も苗字の変更も手間は変わらない筈です。
また、「名前を変える手続きが面倒なので嫌だ」と言うならば、結婚して新居を構えた時、住所変更の手続は面倒ではないのでしょうか? 「結婚して新居を構えた時に住所変更する手続きが面倒だから何とかしろ」と言っている左翼やフェミニストの方の意見も、少なくとも私は一切見た事がありません。
更に、先述したように、「今まで使ってきた姓を変えさせられるのは嫌だ」と言う意見に至っては、「父方の血統名と言う、保守的極まりない制度」に何故左翼やフェミニストの方々が固執するのか全く理解不能です。寧ろ彼等は、「父方の血統名と言う、保守的極まりない制度である姓を廃止しろ」と主張すべきなのではありませんか。
これらは全て「姓」と「苗字」と「屋号」の違いを理解出来ていないから起こる愚論です。この件をスッキリさせたいならば、まずは以下のように考える所から出発すべきです。
そもそも、日本で使われている「姓」と称するものは、突き詰めれば「一家族の名前」なのです。つまり、まるっきり「屋号」なのです。
「屋号」なのですから、結婚して新しく戸籍を作った場合、その戸籍名としての「屋号」が必要になるのは当然であり、その戸籍に属する人は、全てその屋号に属するべきなのです。ですので、元は源氏の一族が足利に行ったから足利氏となったように、「結婚して新しく戸籍を作った場合、新しい戸籍名を作る」とするのが正しいのです。無論、その時に「姓」を「本姓」として記録しておく事に関しては何の問題もありません(ただ、父方の血統名を特別扱いするのはそれこそ女性差別ではないかと思うのですが、何故左翼やフェミニストの諸氏はこれを問題にしないのでしょう。実に不思議です)。
サラリーマンが転職して会社を変わった時、新しい会社の人間の立場で、以前から知っている会社に仕事に行く場合は、当然その時に所属している新しい会社の名前で呼ばれます。A社からB社に変わった人が以前から知っているC社に営業を掛けに行ったら、「B社さん」と呼ばれる筈です。それで何の問題もありません。「所属している部署が変わったら新しい部署の名前で呼ばれる」のは当たり前なのですから、「結婚して新しい戸籍を作った際は、戸籍名として新しい苗字兼屋号を作る」と言う制度にすべきなのです。
どうしても「新しい屋号で呼ばれる」のが嫌なのなら、ナンセンス極まりない迷信に基づく「名前を呼ぶ事にまつわるタブー」を全面的にやめるようにしましょう。「いかなる場所や場合でも、苗字ではなく名前で呼ぶ」と言う事を徹底すれば、「結婚したら呼び名が変わる」と言う事はありません。
尚、「変更手続きの煩雑さ」については、それこそマイナンバーの活用で全て解決する筈です。某IT企業のトップの方が変更手続きの煩雑さを理由にして夫婦別姓に拘っておられるようですが、私に言わせれば、寧ろそう言う立場の方々は「マイナンバーの活用で手続きを簡素化すべきだ」と主張してしかるべきだと思います。しかしそう言う主張をなさったと言う事は寡聞にして知りません。実に不思議かつ滑稽な話です。
また、マスコミが「世論調査」(「世論」はあくまでも「せろん」です。「よろん」は「輿論」であり、「世論」は「よろん」と読むべきではありません)なるものにより、「国民の大多数は選択式夫婦別姓議制度に賛成している」と主張していますが、これは明らかな嘘であり、読み手のミスリードを誘う手口です。本当の所は、「国民の大多数は選択式夫婦別姓制度などどうでも良く、積極的には反対しないからどうぞご勝手に」です。左翼やフェミニストやマスコミ関係がいくら騒いでもこの問題に関する議論が進展しないのは、マスコミの嘘を国民が見抜いているからです。
このように、現在の日本における「夫婦別姓」議論は、私に言わせれば根本的な部分から完全に脱線している大愚論の東正横綱格です。ここをきちんと押さえた上で、夫婦別姓の議論をすべきだと思います。
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