私が山下達郎氏を嫌いになった理由と、竹内まりやさんの「駅」。
実は私、今から38年ぐらい前の頃、山下達郎氏の大ファンでした。無論大滝詠一氏も好きで、両氏のLPを買いまくってはテープに録音し、カーステレオで良く聞いていたものです。
そんな山下達郎ファンが何故山下氏を嫌いになったのか。理由は、竹内まりやさんの「駅」です。
話は前後します。少し前の事になりますが、ネット上で、「竹内まりやの『駅』の歌詞の最後の部分、『私だけ愛してた事を』の意味は、『私だけが』の意味か、『私だけを』の意味か」についてちょっとした論争になった事がありました。全体的な傾向として「を」派が「が」派よりも優勢だったと思います。
これに関しては、私は完全な「が」派です。理由は簡単でして、「駅」の歌詞の初めの方に「昔愛してたあの人なのね」と言うくだりがあります。そして歌詞の後の方に「私だけ愛してた事も」が出て来る訳ですから、この歌詞の対比を考えると、「私は昔あの人を愛していた。しかしそれは私だけが愛していただけだった」となるのが当然であり、他の意味になる余地はありません。これは歌詞の解釈云々の問題ではなく、単純な国語の問題です。ここで「私だけを」の意味と考えると、「昔愛してた」の意味が格段に薄くなってしまいます。冒頭にネタ振りを行って最後に落ちを付けて締める意味でも、ここは「私だけが」でないと締りがなくなってしまいます。
ところが、竹内まりやさんはどう言うつもりで書いていたのかと言う事になりますと、これは話が別です。竹内さんは「私だけを」の意味で書いたと明言しておられますし、そもそもここの部分は現在の歌詞になる前は「私を愛していたことを」となっていたそうです。これに関しては、下記をご参照下さい。
「No. 0037 ■ ファンクラブ会報から maupin [ 2011年11月18日(金) 01:39 ]」
がそれです(将来的にこの記事がなくなる事も考慮し、ここは敢えて全文引用させて戴きます)。
http://live.music.coocan.jp/review-cgi/utahime_compo_review.cgi?page=2&compo=60
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No. 0037 ■ ファンクラブ会報から maupin [ 2011年11月18日(金) 01:39 ]
すでにどなたかご指摘済みのことでしたら、ごめんなさい。
ファンクラブが「ミルキーハウス」だったころ、会報ではときどき、アルバムの収録予定曲とか新曲候補の紹介をしてくれてましたよね。
会報vol.19(昭和61年8月1日発行、21ページ)を見ると、「未公開の明菜の新曲候補の一曲です。涙が出てきそうなステキな曲です。タイトル・詞も仮りです。」と但し書きがあって、「駅」の全歌詞が載っています。
二つ、興味深いなと思うことがあります。
まずひとつが、2コーラス目の最後、『CRIMSON』では「私だけ 愛してたことも」と歌われているフレーズが、会報の仮歌詞では「私を愛していたことを」と書かれていることです。
もうひとつが、「新曲候補」という言葉が確かだとすると、「駅」は「ジプシー・クイーン」の次のシングル曲として考えられていた可能性があるということです。
「私だけ 愛してたことも」は、このレビューでも議論になったところで、「駅」の核心部分ともいえる重要なフレーズ。会報に載っている仮歌詞をもし信用してよいなら、当初の歌詞にたいして、どこかの時点で変更が加えられたことになります。
なぜ変えたのか? それは、明菜サイドからの要望による変更だったのか? それとも、竹内さん自らによる変更だったのか?
知る手立てがあるものなら、ぜひ知りたいところです。
会報の仮歌詞と『CRIMSON』での歌詞を比べると、このフレーズ以外は両者まったく同じです。そのことからも、このフレーズの重要性が感じられます。
また、結局、「駅」はアルバム収録曲となり、シングル新曲は「Fin」に決まった経緯とは、どういうものだったのか。それも知りたいところです。
ファンクラブ会報のvol.17(昭和61年2月1日発行、18ページ)を見ると、『不思議』の収録予定曲が紹介されていますが、B面の最後の曲として「Fin」が挙がっています(A面が5曲、B面が6曲)。もしかすると「駅」は、『不思議』での選から外れてシングル候補になった「Fin」(他に「Fire Starter」「見返り美人」など)との競合に破れ、アルバム収録ということになったのでしょうか?
のちに竹内バージョンが大ヒットしたように、「駅」は十分にシングル的な曲ですし、新曲候補だったというのも頷ける気がします。
以上、単なる深読みな推測かも知れませんが。。。
どなたかご存知の方がいらっしゃったら、教えてください。
■ お気入りのアルバムタイトル: CRIMSON
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竹内さんがこう明言している以上、私としてはこれ以上何も言う事はありません。私としては歌詞に対する「解釈云々」はナンセンスだと思っています。歌詞の内容は作者の意図が全てであり、解釈の余地などありません。その意味で、竹内まりやさんが「私だけを」の意味で書いたのならそれが全てであり、それ以上でもそれ以下でもありません。ただ、私の意見は前述した通りでして、ここは前の部分との対比で「私だけが」とした方が、歌詞全体が引き締まるのは間違いないと考えます。この部分を「私だけを」とすると、「何と自意識過剰な女だ」と、正直、私としてはドン引きしてしまいますし、また、「冒頭に張った伏線を回収し忘れた小説」のような物足りなさを感じます。
さて、これが元のまま「私を」と明言されていたままならこのような問題は発生しなかったのですが、この部分が「私だけ愛してた事も」と変わってしまい、「私だけが」の意味に取れる余地が発生してしまったため、話がややこしくなってしまいました。中森明菜さんはこれを「私だけが」の意味を込めたとしか思えない歌い方で歌ったようです。
これに激怒したのが山下達郎氏です。「中森明菜」と名指しまではしなかったのですが、「余りにも酷い解釈」と思い、竹内さんにセルフカバーを勧めたそうです(この経緯は竹内さんのアルバム「Impresssons」の「駅」のライナーノートにて、プロデューサーである山下氏が「あるアイドルシンガーの解釈のひどさ云々」として書いておられます)。
で、ここまで書きまして、やっと「私が山下達郎氏を嫌いになった理由」に辿り着きます。その理由も簡単で、「何と大人げない。山下達郎の狭量ぶりには虫酸が走る」と思ったからです。
そもそも、「『私だけを』としか解釈してはならない」と言いたいのなら、歌詞を曖昧にした事が悪いのであり、「私だけを」と明示し、「この歌詞はこう言う意図で書いたからこう歌うように」と言う「仕様書」を付けておくべきです。そしてどっちとも取れるような曖昧な書き方はすべきではありません。譜割りの関係で「私だけ愛してた事も」とせざるを得ないと言うかも知れませんが、それもナンセンスであり、「わたしーだけー、あいしーてーたーこーとーもー」と歌わずに、「わたしだーけを、あいしーてーたーこーとーもー」と歌えば良いだけであり、言い訳にはなりません。
余談ですが、松任谷由実さんの「春よ、来い」にも歌詞の譜割りの中途半端さがあります。「春よ、遠き春よ」とあるかと思えば、「春よ、まだ見ぬ春」ともあり、脚韻が統一されていません。私なら「春よ、まだき春よ」とするか、「はーるよー、まーだーみーぬーはるー」でなく、「はーるよー、まだみーぬーはーるよー」にして、脚韻は統一します。蛇足ながら、「駅」の中で使われている人称にも統一性の欠如が見られます。この歌にはこの女性自身と相手の男性しか出て来ないのに、相手の男性を「あなた」と言ったり「彼」と言ったり「あの人」と言ったり、統一性がありません。この歌なら「あなた」で統一するように文字数を調整すべきでしょう。どうも音楽家の方々は、こう言う細かい部分がぞんざいだとしか思えないですね。
また、中森明菜さんも自分の感情を勝手に込めたのだとしたらそれも独りよがりでしょう。作者の意図に沿って歌うのが本筋だと思います。これは森進一さんが「おふくろさん」に勝手に台詞を追加し、しかもその内容が作者の川内康範先生の意図とは大きく違う内容だったため、川内先生の怒りを買い、歌唱を禁止された事とも通じます。歌手はあくまでも歌い手です。作詞者、作曲者、編曲者と一緒になって歌を作るとは言え、歌詞の内容や曲調に背いた歌い方はすべきではありません。
で、話を戻しますが、「中森明菜の解釈云々」で口汚く中森さんを罵る割には、歌詞全体の統一感を蔑ろにした「私だけ」については何も言わない山下氏を、私は徹底的に嫌いになりました。それ以降は一切山下氏の音楽にも竹内さんの音楽にも金は投じておりません。無論、この考えを他者に押し付ける気は全くありませんが、私はそう思った、と言う事を書いておきたくなったので書かせて戴きました。
そんな山下達郎ファンが何故山下氏を嫌いになったのか。理由は、竹内まりやさんの「駅」です。
話は前後します。少し前の事になりますが、ネット上で、「竹内まりやの『駅』の歌詞の最後の部分、『私だけ愛してた事を』の意味は、『私だけが』の意味か、『私だけを』の意味か」についてちょっとした論争になった事がありました。全体的な傾向として「を」派が「が」派よりも優勢だったと思います。
これに関しては、私は完全な「が」派です。理由は簡単でして、「駅」の歌詞の初めの方に「昔愛してたあの人なのね」と言うくだりがあります。そして歌詞の後の方に「私だけ愛してた事も」が出て来る訳ですから、この歌詞の対比を考えると、「私は昔あの人を愛していた。しかしそれは私だけが愛していただけだった」となるのが当然であり、他の意味になる余地はありません。これは歌詞の解釈云々の問題ではなく、単純な国語の問題です。ここで「私だけを」の意味と考えると、「昔愛してた」の意味が格段に薄くなってしまいます。冒頭にネタ振りを行って最後に落ちを付けて締める意味でも、ここは「私だけが」でないと締りがなくなってしまいます。
ところが、竹内まりやさんはどう言うつもりで書いていたのかと言う事になりますと、これは話が別です。竹内さんは「私だけを」の意味で書いたと明言しておられますし、そもそもここの部分は現在の歌詞になる前は「私を愛していたことを」となっていたそうです。これに関しては、下記をご参照下さい。
「No. 0037 ■ ファンクラブ会報から maupin [ 2011年11月18日(金) 01:39 ]」
がそれです(将来的にこの記事がなくなる事も考慮し、ここは敢えて全文引用させて戴きます)。
http://live.music.coocan.jp/review-cgi/utahime_compo_review.cgi?page=2&compo=60
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No. 0037 ■ ファンクラブ会報から maupin [ 2011年11月18日(金) 01:39 ]
すでにどなたかご指摘済みのことでしたら、ごめんなさい。
ファンクラブが「ミルキーハウス」だったころ、会報ではときどき、アルバムの収録予定曲とか新曲候補の紹介をしてくれてましたよね。
会報vol.19(昭和61年8月1日発行、21ページ)を見ると、「未公開の明菜の新曲候補の一曲です。涙が出てきそうなステキな曲です。タイトル・詞も仮りです。」と但し書きがあって、「駅」の全歌詞が載っています。
二つ、興味深いなと思うことがあります。
まずひとつが、2コーラス目の最後、『CRIMSON』では「私だけ 愛してたことも」と歌われているフレーズが、会報の仮歌詞では「私を愛していたことを」と書かれていることです。
もうひとつが、「新曲候補」という言葉が確かだとすると、「駅」は「ジプシー・クイーン」の次のシングル曲として考えられていた可能性があるということです。
「私だけ 愛してたことも」は、このレビューでも議論になったところで、「駅」の核心部分ともいえる重要なフレーズ。会報に載っている仮歌詞をもし信用してよいなら、当初の歌詞にたいして、どこかの時点で変更が加えられたことになります。
なぜ変えたのか? それは、明菜サイドからの要望による変更だったのか? それとも、竹内さん自らによる変更だったのか?
知る手立てがあるものなら、ぜひ知りたいところです。
会報の仮歌詞と『CRIMSON』での歌詞を比べると、このフレーズ以外は両者まったく同じです。そのことからも、このフレーズの重要性が感じられます。
また、結局、「駅」はアルバム収録曲となり、シングル新曲は「Fin」に決まった経緯とは、どういうものだったのか。それも知りたいところです。
ファンクラブ会報のvol.17(昭和61年2月1日発行、18ページ)を見ると、『不思議』の収録予定曲が紹介されていますが、B面の最後の曲として「Fin」が挙がっています(A面が5曲、B面が6曲)。もしかすると「駅」は、『不思議』での選から外れてシングル候補になった「Fin」(他に「Fire Starter」「見返り美人」など)との競合に破れ、アルバム収録ということになったのでしょうか?
のちに竹内バージョンが大ヒットしたように、「駅」は十分にシングル的な曲ですし、新曲候補だったというのも頷ける気がします。
以上、単なる深読みな推測かも知れませんが。。。
どなたかご存知の方がいらっしゃったら、教えてください。
■ お気入りのアルバムタイトル: CRIMSON
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竹内さんがこう明言している以上、私としてはこれ以上何も言う事はありません。私としては歌詞に対する「解釈云々」はナンセンスだと思っています。歌詞の内容は作者の意図が全てであり、解釈の余地などありません。その意味で、竹内まりやさんが「私だけを」の意味で書いたのならそれが全てであり、それ以上でもそれ以下でもありません。ただ、私の意見は前述した通りでして、ここは前の部分との対比で「私だけが」とした方が、歌詞全体が引き締まるのは間違いないと考えます。この部分を「私だけを」とすると、「何と自意識過剰な女だ」と、正直、私としてはドン引きしてしまいますし、また、「冒頭に張った伏線を回収し忘れた小説」のような物足りなさを感じます。
さて、これが元のまま「私を」と明言されていたままならこのような問題は発生しなかったのですが、この部分が「私だけ愛してた事も」と変わってしまい、「私だけが」の意味に取れる余地が発生してしまったため、話がややこしくなってしまいました。中森明菜さんはこれを「私だけが」の意味を込めたとしか思えない歌い方で歌ったようです。
これに激怒したのが山下達郎氏です。「中森明菜」と名指しまではしなかったのですが、「余りにも酷い解釈」と思い、竹内さんにセルフカバーを勧めたそうです(この経緯は竹内さんのアルバム「Impresssons」の「駅」のライナーノートにて、プロデューサーである山下氏が「あるアイドルシンガーの解釈のひどさ云々」として書いておられます)。
で、ここまで書きまして、やっと「私が山下達郎氏を嫌いになった理由」に辿り着きます。その理由も簡単で、「何と大人げない。山下達郎の狭量ぶりには虫酸が走る」と思ったからです。
そもそも、「『私だけを』としか解釈してはならない」と言いたいのなら、歌詞を曖昧にした事が悪いのであり、「私だけを」と明示し、「この歌詞はこう言う意図で書いたからこう歌うように」と言う「仕様書」を付けておくべきです。そしてどっちとも取れるような曖昧な書き方はすべきではありません。譜割りの関係で「私だけ愛してた事も」とせざるを得ないと言うかも知れませんが、それもナンセンスであり、「わたしーだけー、あいしーてーたーこーとーもー」と歌わずに、「わたしだーけを、あいしーてーたーこーとーもー」と歌えば良いだけであり、言い訳にはなりません。
余談ですが、松任谷由実さんの「春よ、来い」にも歌詞の譜割りの中途半端さがあります。「春よ、遠き春よ」とあるかと思えば、「春よ、まだ見ぬ春」ともあり、脚韻が統一されていません。私なら「春よ、まだき春よ」とするか、「はーるよー、まーだーみーぬーはるー」でなく、「はーるよー、まだみーぬーはーるよー」にして、脚韻は統一します。蛇足ながら、「駅」の中で使われている人称にも統一性の欠如が見られます。この歌にはこの女性自身と相手の男性しか出て来ないのに、相手の男性を「あなた」と言ったり「彼」と言ったり「あの人」と言ったり、統一性がありません。この歌なら「あなた」で統一するように文字数を調整すべきでしょう。どうも音楽家の方々は、こう言う細かい部分がぞんざいだとしか思えないですね。
また、中森明菜さんも自分の感情を勝手に込めたのだとしたらそれも独りよがりでしょう。作者の意図に沿って歌うのが本筋だと思います。これは森進一さんが「おふくろさん」に勝手に台詞を追加し、しかもその内容が作者の川内康範先生の意図とは大きく違う内容だったため、川内先生の怒りを買い、歌唱を禁止された事とも通じます。歌手はあくまでも歌い手です。作詞者、作曲者、編曲者と一緒になって歌を作るとは言え、歌詞の内容や曲調に背いた歌い方はすべきではありません。
で、話を戻しますが、「中森明菜の解釈云々」で口汚く中森さんを罵る割には、歌詞全体の統一感を蔑ろにした「私だけ」については何も言わない山下氏を、私は徹底的に嫌いになりました。それ以降は一切山下氏の音楽にも竹内さんの音楽にも金は投じておりません。無論、この考えを他者に押し付ける気は全くありませんが、私はそう思った、と言う事を書いておきたくなったので書かせて戴きました。
この記事へのコメント
竹内さんのCDのライナーノーツを見て、これって中森明菜さんの事ではと固まったのは今でもはっきり残っています。
人を傷つけてしまうと残るものなんですね。ある発言を見て、あれこの人?と思って検索してここに来ました。
なのに所謂「芸術家」の方々は、自分達の商品が何か「崇高」な物だと勘違いなさっておられるように思えてならなかったのでこの文章を書きました。
山下達郎氏の音楽自体は嫌いではないのですが、彼の立場で後輩をあんな場所で貶す必要はないですよね。
直接関係ありませんが、車でラジオ聞いててやたらうざくて不快だなと感じたMCが山下氏でした…まあ個人の感想ですけど。
ちなみに「駅」の歌詞の解釈そのものは、私も先入観なく初めて聞いたときに「を」で解釈しましたしそれ自体はそうだろうなと思うのですが、あの場でのあのコメントは妻のベストアルバムさえも貶めてるとしか思えません…。
次に、山下達郎氏の狭量ぶりにはいい加減虫酸が走る思いでした。「このようにしか解釈してはいけない」と言うのならそう明言した文書でも添付すべきです。「それを汲み取るのがアーチストだ」と言わんばかりの高飛車な姿勢には唾棄すべき思いを抱きますね。
こういうつもりで書いたから、こう歌ってほしいというのがあるなら、そのように指示すればいいのに。(しかもつくったのは奥様ですし)
私は竹内さんの「私だけを愛してたことがわかる」バージョンの、自信満々な歌い方の作品も嫌いではありませんが、明菜さんの解釈の作品に一方的に難癖をつけるのは納得が行きません。
プロ意識で物申してるつもりかもしれませんが、失礼な方だなと思ってしまいました。
私としては、提供された歌い手の解釈に任せてほしいと思います。
後から竹内まりやさんのバージョンががあまりにも大きな声で元気に歌われているのを聞いてガッカリしました。音楽界の力関係で明菜の歌の世界がひっくり返されてしまったのですね。
「駅」はアルバムの構成曲なのですが、
きっとアルバムは聞いていないのでしょう。
明菜をアイドルと呼んでみたり、竹内まりあさんに歌い直させたり、度量の狭い人なのですね。
私が残念に感じるのは、歌い手の解釈について非難するのではなく、『これほど悲しい気持ちを持っていてそのように読み取ったのか』と思いつつ聴くと、本当に胸を詰まらせる響きを聴かせてもらえるのに、その余地を与えない書き方であった事です。書かれた歌はそれのみで存在するのではないのでしょうか。歌い手が作り手の思いを超えてもいいのでは、と思いますがそれを許されないのでは歌は育つ事はないでしょうね。
私としては歌詞に対する「解釈云々」はナンセンスだと思っています。歌詞の内容は作者の意図が全てであり、解釈の余地などありません。その意味で、竹内まりやさんが「私だけを」の意味で書いたのならそれが全てであり、それ以上でもそれ以下でもありません。
しかしそれならそれで「この歌詞はこう言う意図で書いたからこう歌うように」と言う「仕様書」を付けておくべきです。そしてどっちとも取れるような曖昧な書き方はすべきではありません。
また、中森明菜さんも自分の感情を勝手に込めたのだとしたらそれも独りよがりでしょう。作者の意図に沿って歌うのが本筋だと思います。
これは森進一さんが「おふくろさん」に勝手に台詞を追加し、しかもその内容が作者の川内康範先生の意図とは大きく違う内容だったため、川内先生の怒りを買い、歌唱を禁止された事とも通じます。
歌手はあくまでも歌い手です。作詞者、作曲者、編曲者と一緒になって歌を作るとは言え、歌詞の内容や曲調に背いた歌い方はすべきではありません。
ただ、繰り返しますが、それ故に明確にしておくべきであるのは、冒頭の「昔愛してた」と、最後の「私だけ愛してた」の「愛してた」は同じ方向の愛であるべきであり、同じ意味になるべきだと言う事です。
冒頭の「愛してた」は「自分が相手を愛していた」の意味なのですから、最後の「愛してた」も同じ意味になるべきです。
この二つの「愛してた」が別の意味であると言うのなら、歌としての内容は実に浅薄で、ただ言葉を並べただけのものでしかなく、歌詞の値打は極めて低いと思います。
私も、この批判が原因で、竹内まりや・山下達郎夫妻が大嫌いになりました。
KFCで、「すてきなホリデー」や「今夜はHearty Party」が掛かっているとムカつきます。ここ3年、毎年、「掛けないで欲しい」と要望は伝えていますが、相手にはされてません。
こういっては何ですが、山下達郎の「クリスマスイブ」がCMに使われて、毎年、オリコンにチャートインしていたから、味を占めているものと思います。
歌唱に関して、山下達郎と竹内まりやは、自身の才能を鼻にかけているようでそれが出ています。
二人とも、感情がこもっていなくて、上辺だけで、共感ができないんですよね。強弱も付けられないですからね。
お二人の性格が、歌唱に表れています。
私は、山下達郎なら、小田和正さん、竹内まりやなら、渡辺真知子さんの方が好きです。
渡邉真知子さんは、楽しそうに歌っています。本来、歌はこういうものなんですよね。
山下達郎氏竹内まりや氏の実績はともかくとして、本文にも書きましたように、中森明菜さんへのこの一連の対応は本当に見苦しかったと思います。
無論、竹内まりやさんはそれほど乗り気ではなかったようですが、私にしてみたら、何故「私を愛していた」を「私だけ愛してた」に変えたのか今でも疑問なんですよ。
文章と言うものは取り違えられるような曖昧な書き方はすべきではないと思います。そう言う意味では竹内さんのこの「変更」は本当に余計だったと思いますね。
「何と自意識過剰な女だ」と、正直、私としてはドン引きしてしまいます
この意見に同じ意見を持つ方をようやく見つけた!と思い筆を走らせました(筆ではありませんが)
この曲は中森明菜さん、竹内まりやさん、JUJUさん、徳永英明さんなど、様々なバージョンを聞き比べました。
どの方もそれなりの解釈で歌っていらっしゃると思いますが、
本来の歌詞解釈という考え方だと、2つに意味が別れる歌詞作りは、通常「あえて」作ります。
この山下達郎さんのナンセンスな意見は作り手としてなってないな。と思います。
普通、歌詞や小説など文学作品を作成する際、受けて側の解釈に任せる部分も存在します。
もしそれを存在させたくないのであれば、しっかりと区分けする必要があります。
今回の歌詞は、もし「私だけを愛していた」ならば、自信満々すぎますし、はっきりわかったというのは2年も会っていないし声もかけていない異性に対して、回答を聞いたわけでもない知ったかぶりな独りよがりになります。
そう、「恥ずかしい女」なのです。
ただもしこういった女性が彼に直接問いただしてみても、「お前なんて好きではなかったよ」と言われても、きっと、この人は嘘をついているのね。と思い込む女性でしょう。
歌詞だけで解釈するならば、この歌は本当に様々な解釈ができます。
男女お互い既婚者で不倫同士だった=読み取れる理由は「それぞれに待つ人のもとへ」なんて2年もあってないのにどうして分かるのか。
普通の恋人同士で女性が男性を振った=彼のまなざし・うつむく横顔(私がいなくなったから、自信がなくなった彼)
キッパリ吹っ切れた女側が見た男の哀愁=過去お互い恋人同士であったけど、今やそれも昔の話。郷愁が漂うけど、今の彼を見ると哀れに思える。思わずかわいそうで泣けちゃうわ。私はこんなに元気なのに。彼はそんなじゃないのね。幸せじゃないのかしら。(上から目線)
常に上から目線の女性側なのですが、色々解釈できるので実は面白いな。といつも聞いている歌です。
個人的にJUJUさんの甘い声で歌う「駅」が好きです。
長くなりましたが、山下達郎さんは大人気ないな・・・・。
そう思う件の騒動です。
私としては何度も書いていますが、この詞については、「昔愛してた」と「私だけ愛してた」の対比から、国語的には「私だけが」しか有り得ないと考えております。
そもそも「解釈」と言うのは、仰る通り、作者が意図的に何とでも読めるような曖昧な内容にしない限りは有り得ません。また、この歌は竹内さんが元々作られた、「私を愛していた」が正しいのですから、それを「私だけが」と考えるのはおかしいのです。
ですが、だからこそ、この部分はどちらにも取れるような書き方にしてしまった竹内さんが悪いと考えます。私が思うには、多分ルーティンワークで作ったからこうなったのではないかと。
尚、山下達郎氏の狭量ぶりと竹内さんの描く「自意識過剰女」については繰り返す必要がないので割愛します。
しかし、明菜さんの歌としては 私の方だけが愛していた のは高校生ながら当たり前のこととして覚えていたので、衝撃を受けました。まりやさんの歌として何度もカラオケで歌いましたが、そのときも私の方だけと思っていました。
色々検索するうちに、こちらに辿り着き、貴重な会報の内容を知ることができて大変参考になりました。
しかし、山下さんを嫌いになりました。
山下達郎を怒らせた曲、なんて動画に書かれたりしていますね。繊細な明菜さんがどう思われていたのかと思うと。
もう何度も繰り返して書いてきましたので詳しくは書きませんが、この歌は国語的には「私だけが」になるべきであると言う事と、「余計な解釈を招く表現はすべきではない」と言う事は、私の意見として確たるものであります。
自分も「が」の解釈で聞いてました。
>「昔愛してた」の意味が格段に薄くなってしまいます。
『今なら分かる。(あなたも)私だけ「を」愛してたことを。』
こっちもアリとは思いますよ。
山下達郎も、「聞き手次第でどちらでも」
としときゃ良かったのにね。
折角いい歌なのに。
>>『今なら分かる。(あなたも)私だけ「を」愛してたことを。』
>>こっちもアリとは思いますよ。
何度も書いていますが、どちらともとれる文言について個人的にどう感じようとそれは自由です。また、竹内さんも「私だけを」の意味で書いていたと明言しておられるのですからそれも問題ありません。
私が言っているのは、冒頭で「昔愛してた」とネタを振ってあるのに、最後のオチの部分で「私だけを」としてしまったらネタフリとオチの関連が消えてしまって内容が薄っぺらくなる、と言う事なのです。
その意味で、私としては「物語的な意味では『が』しか有り得ない」と主張している訳であり、これを「を」とするのは物語的にチープだと言っているのです。
> それは私だけが愛していただけだった」となるのが当然であり、
> 他の意味になる余地はありません。
> これは歌詞の解釈云々の問題ではなく、単純な国語の問題です。
という一方的な書き方はしないほうがいいのでは?
これでは、他の意味で理解する人は国語力に問題があるかのよう
> 「私だけを」としてしまったらネタフリとオチの関連が消えてしまって
> 内容が薄っぺらくなる
> これを「を」とするのは物語的にチープだ
も含めて、別解釈する人を心の内で馬鹿にしている感じで
達郎氏と同類に見えますよ
>>どちらの解釈もありうると認めるなら
もしそうお取りになられたのなら、私の書き方が悪かったと言う事で、その件についてはここで補足させて戴きます。
私は一貫して、「解釈、は意味がない。作者の意図が全てである」、また「国語的には『が』しか有り得ないが、作者が『を』だと言うのならそれはそれが正しいので、それ以上はどうしようもない」と言う立場にて意見を主張しております。
ですので、「どちらの解釈もありうる」とは認めません。
また、私としては、「他の意味で理解する人は国語力に問題がある」と考えておりますし、また、「別解釈する人を心の内で馬鹿にしている」と言うご指摘も否定は致しません。その通りだと思います。
但し、「達郎氏と同類に見えますよ」については、私は受諾致しません。何故なら、私なら「この歌はこう言う意図で作ったのでこのように歌って下さい」と言う仕様書を付けるからです。その点、山下達郎氏とは明確な違いがあると自認しております。
無論、あなたが「同類に見える」とお考えになるのはあなたのご自由ですので、それについては何も申し上げる事はございません。
山下達郎は大嫌い?
ジャニーズとの関係で中森明菜に難癖をつけた」と言うのは大変興味深い観点ですね。無いとは言い切れないところが面白いです(^_^)。
こちらの記事に辿り着き、私の長年の心の引っかかりが解け、思わず膝を叩きました。
私も小中高大と、山下氏の音楽漬けでしたが、『駅』騒動も知らぬうちに、同時期の1987年頃より氏の音楽から遠ざかっています。
私が好きだった頃の氏の作品は今でも聴きますし、才能に溢れ素晴らしい完成度であると思います。それだけに『駅』騒動(というかイチャモン)は残念でガッカリなのです。
中森明菜が『駅』を歌うよりも大分前に、雑誌か何かのインタビューで「無人島に一曲だけ持っていくとしたら?」との問いに、「恋のブギウギトレインが好き」と答えていました。「おお、明菜、わかっとるやないか!」と聖子派の私も感心したものですが、後年山下氏からあのような「仕打ち」を受けるわけです。繊細な彼女が傷付かないはずがありません。
『駅』に関しては私も「私だけが」としか取れず、長年そのように聴いていましたが、実はそうではなかったとの作者の談に混乱いたしました。これは瑕疵のある叙述トリック小説ではないかと(笑)
また、奥様のライナーノーツに「憤慨」の文言を入れてしまうあたり山下氏の物言いに違和感を覚えますし、後に奥様も「そんな騒動は無かったヨ」風にみえるライナーノーツを書いておられますネ。
とにかく私が言いたいのは…明菜がカワイソウ…ということなのです。
>>こちらの記事に辿り着き、私の長年の心の引っかかりが解け、思わず膝を叩きました。
実を言いますと私もこの件については、本文に書きました「ファンクラブ会報から」の記事で、「そう言うことだったか」と思ったクチです。
そもそも、この曲は元々が「中森明菜のシングルのために作られた曲」であり、当時の中森明菜さんの路線を考えれば、「竹内まりやが描くタカビー女」とは正反対の位置にあった筈です。ならば、「自分だけを愛していた」になる筈がありません。
もともと竹内まりやさんの曲に出て来る女は、極論すれば「高慢ちきで鼻持ちならない女」です。それに合った内容や歌い方が「当時の中森明菜」に合う訳がないのです。
しかし実に皮肉な事に「私を愛していたことを」が「私だけ愛してたことを」に変わったために、「この曲の内容が中森明菜に合う余地が出来てしまった」と言う事なんですね。
だから、山下達郎氏が激怒するのは全く筋違いなんですよ。達郎氏の考えている内容ならば、中森明菜路線とは真逆ですから、「解釈の酷さ云々」以前の問題であり、「そもそも中森明菜のために作った曲が、明菜ワールドを壊す内容になっていた」曲を中森明菜サイドに提供した事が悪いのですから。
ただ、これもまた皮肉な話ですが、「駅」に関して言うならば、はっきりと「私だけが愛していたことを」としてしまい、中森明菜の路線に合わせた方が、内容には深みが出た事は否定できませんね。何故ならば、「私だけが愛していた」のなら、冒頭の「昔愛してたあの人なのね」がぐっと生きて来る訳ですから。